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(お天気の日の海の沖では)

お天気の日の海の沖では
子供が大勢遊んでゐるやうです
お天気の日の海をみてると
女が恋しくなつて来ます

女が恋しくなるともう浜辺には立つてはゐられません
女が恋しくなると人は日蔭に帰つて来ます
日蔭に帰つて来ると案外又つまらないものです
それで人はまた浜辺に出て行きます

それなのに人は大部分日蔭に暮らします
何かしようと毎日々々
人は希望や企画に燃えます

さうして働いた幾年かの後に、
人は死んでゆくんですけれど、
死ぬ時思い出すことは、多分はお天気の日の海のことです。
                (一九三四・一一・二九)
 
 
 
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」P654より)
 
 
via.中原中也インナープラネット
 
 
 

詩を朗読してもらった

人生で初めての体験。

自分の書いた詩を、自分ではない人が、人前で朗読している。

一お客さんとして足を運んでいた僕は、不思議だったし、緊張もしたし、恍惚とした。

そして、言葉が音声として発せられ、空気中を振動して伝わり、聴き手の耳に入るということの果てしない色気を初めて味わった。

そこには毒も華も同時に存在していて、まるで遊郭のよう。

えげつなさも、快楽も、興も、酔も。

言葉と、声と、空気。

1のものが2にも3にもなるような、興奮と恐怖のランデブーで、ございました。

朗読してくれたのは高校の先輩であるソウヤくん。

数人の詩を朗読する中で、朗読してもらった僕の詩は「にほんタクシー」。

たけるくんとヒッチハイクで九州一周した時の長崎での体験を詠った詩です。

場所は銀座のけやき通りの一角にあるカフェ。

イベントは、地元田川の後輩になるタカキとタイヨー主催のチャリティーライブ。

他の出演者は音楽ばかりの中で、ソウヤくんだけは詩の朗読。

詩集を手に取り、部屋でひとり音読するのとは訳が違う、朗読。

自分の知らなかった、詩の新たな一面を体感させてくれた、今回声をかけてくれたソウヤくんに心から感謝です。

そして、主催のふたりの、相変わらず進み続けてる姿を見れたのも刺激になりました。

声。

ソウヤくんも、ウチのしょーへーさんも、人並みはずれて声に魅力があります。

ソウヤくんは最後の詩だけ、ギターをアンプに繋いで歌うように読みました。

掛け値無しに惹き付けられる声は健在で、耳に心に気持ちの良いものでした。

ほんと、コエッテスゴイ。

って。

そして、

コトバッテ、ツヨイネ。
 
 
 
◆◆◆
 
またひとつ、何かが新しいと、全身で感じています。
 
 
 

モゲとダダ

ビールが美味しいときは 正常
ビールが美味しくないときは 異常。

なので

正常。
 
 
 
◆◆◆

 モゲ(ピロピロギターソロ)について今までになく考えている。今までモゲなんてほとんど興味が無くて、だから、特に好きなモゲの曲を挙げようと思っても思いつかない。だから、自分で曲にモゲをつけようと思っても、大したモゲにはなり難い。ただどうしても、「優しいフレーズ」は好きなので、耳に自然と残ってるモゲもある。優しいモゲをつけれればなぁ、僕につけれるモゲをつけたいと今は思ってる。今まではモゲを考えることすら嫌だった。速弾きなんてカメムシと同類だし、ライトハンドなんてウジ虫だし、その他諸々も煮ても焼いても食えないようなモゲ属ばかりだ。ちょーキングはテントウ虫くらいカワユイ。不可欠。

 しかしモゲは何と言っても楽曲にとって欠かすことのできない要素であるので、そろそろ駄々を捏ねているわけにもいかない。一枚のアルバムにモゲが一匹もいないなどとなると一大事だ。今まで培ってきたモゲの知識をフル稼働し、頭の中で出来上がったフレーズのイメージを指板に落とし込む。込む。落ちない。部分的には落ちる。…。レフトフィンガーブラザーズが僕に話しかけて来る。「よう兄弟。弾きたいフレーズがあるのかもしれないが、俺たちは今までそんな機敏な動きをしたことはないゼ。しかも中年太りで動けねぇ。」まるで今の僕と一緒だ。僕のスーツのズボンも、ファスナーが5センチ弱閉まらない。「歪ませたからってごまかしきれるもんじゃねえゼ。」確かに、ベルトでなんとか押さえつけてもごまかしきれるわけもない。

 やたらビブラートだけは自分で気持ち良くなってきているわけだが、アブラものばっかりだされても、聴き手からしたらどうしようもないというわけだ。ちゃんと聴き手に「だせる」レベッッルのモゲでなければ、味わってもらえないどころか、耳障りになってしまう。極上のモゲ。モゲの鉄人。僕にとっての極上のモゲはジミヘンであり、モゲの鉄人は真鍋吉明だ。今の僕はほか弁にもオリジン弁当にも、全国の駅弁にすら及ばない。言わばモゲの肥やし。世界中のギタリストが、一日にかき鳴らすモゲの、全ギタリスト分の一の奴隷だ。雨になるための雀の涙の構成物質程度。モゲの音数を自由に間引いたり詰め込んだりできるようになるには、今からやることは山積みだ。気持ちには限りが無いが、時間には限りがある。

 自分自身のダダイズムに対してダダ的態度をとるためには、十分にダダイストでなければならない。ダダはそれゆえ行動でもある。それどころか、この世でもっとも危険にさらされたもっとも骨の折れる行動である。ダダイストは、いかに「精神」が形成されるかについて詳細にわたる経験を集めた。ダダは「良識(ボン・ナンス)」をもつこと。つまり、机を机とみなし、スモモをスモモとみなすことに価値を置く運動であり、体験であり、素朴さであるので、またダダは何事にも無関係であり、それゆえにあらゆる物事を関係づける力を持つので、あらゆる種類のイデオロギーに反対する。(「ダダ大全」/リヒャルト・ヒュルゼンベック、「序文」より部分抜粋・再構成)

 ダダはなにものをも意味しない (「ダダ宣言一九一八年」/トリスタン・ツァラ)

 僕は僕のモゲが、ホゲ(コード)と良く絡み合った時に、ひどく恍惚とした艶かしさを感じる瞬間がある。けれども、僕の力不足で、そのオーガズムを持続させることができない。もっと気持ちよくできるはずなんだけれども。

 一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。(「芸術論覚え書」/中原中也)

 モゲがモゲであるように、しかし僕がモゲイストとしてあるわけではなく、僕は僕であれるように。ダダとモゲとホゲと戯れながら、日々を紡いで生きたいのです。

あゝ戀が形とならない前
その時失恋をしとけばよかつたのです(「戀の後悔」/中原中也より)

 ダダイストであり続けるということは、モゲとホゲが旧知の仲であることと同様であり続けたい。空気や水が、生活においてごく当たり前であるように。

 それでは、乗り込んだ列車に、振り落とされぬよう、ご機嫌な夜の中に、ひと欠片、取り返しのつかなくなるような猜疑心を、スライドさせて、あげましょう。

 明日も、充ち満ちた、一日を!
 
 
 
◆◆◆

「マーチ」

ホットケーキひとつ、ゆっくり走る
サンドイッチひとつ、ゆっくり頷く

幸せの物差しなんて中身次第

トマト缶イッコ、ゆっくり蹴飛ばす
 
 
 

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詩人は何を謳うのか

だらだらと久々に長いよ♪

◆◆◆

これはやたらと難しいテーマであって、おいそれ簡単に答えがでるようなものではない。
このテーマに対しての考察や見解は、論者の状況により常に変化するものだし、変化して然るべきであると考える。

ただ、その都度での結論なり発見なりは残しておいても悪いものではない。
その上での展開が発展していけばいいのであって、時点での是が非かを問うものでもない。

詩人は何を謳うのか

宮廷詩人や吟遊詩人の活動が旺盛だった頃とは違い、社会背景も激動しているわけでもなく、多くの人々に共通した強い喜びや悲しみがあるわけではない。
職業詩人と言っても、現在その括りに当てはまる人は指折り数えられるくらいで、極端なところでは現代詩人はみんな本職サラリーマンなどと言われている。

今現在を生きる詩人が謳うべき詩もあるだろうし、今現在を生きる詩人にしか謳えない詩もあるだろう。今現在だからこその詩も。

詩と言って、今現在私たちが連想できるような詩や詩人の名前のほとんどは、洋邦問わずに社会の黎明期から成熟期への過渡期に生きた方々のものばかりだと思う。もしくは牧歌的なものであったり、伝承や童謡などの土着の文化に基づいたものだろう。

共通感情が希薄になっている現代に於いて、詩人は何を謳うのか。何を謳う詩人の言葉に強い力が宿るのか。

これを追いかけるには、書き続けることにしか手段が無い。現在を生きる詩人が何を謳っていたのを知るのは、3、40年後になって一世代が一括りにされて、はじめて解りやすく表現されるのだろう。もっと先の話かもしれない。

今世界中で何が起きているかは、森の中の一本の木にとっては到底知り得ない。今その自分自身の身の回りで起きている事が全てで、今居る自分の場所から精一杯見渡せる限りの範囲が世界だ。

その中で生まれてくる言葉を謳う。より素敵に象徴的に。言葉の羅列に感情を純化させた結晶を飾り付けていく。それはどんな造形よりも美しく、優しく、強く、迫力のあるものに成り得る。

詩人が謳うのは、生命であるという事は、古今東西一貫して共通している事ではないだろうか。

詩という形式の多様性と可能性が時間と比例して広がっていくように思えるのは、受け手が成長と共に変化していく事と深く連結している。

◆◆◆

今朝の通勤時の電車の中で、隣に10代後半であろう男の子が立っていた。混み合っている車内でヘッドホンから漏れる音は爆音。しかもハイスタのKISS ME AGAIN。

きっとテンションが上がっていたのは間違いなく僕だけで、周りの人たちはあからさまに鬱陶しそうだった。しかも曲の途中でスキップしていきなり曲変えたりしやがるので、余計うざかったことでしょう。

KISS ME AGAINでかなりキタけど、GROWING UPが流れた時とかカバン放り投げて短パンはいてどっかに飛んで行きたくなりました。いい朝や。

僕は通勤で二回路線を乗り換えるんですが、そのハイスタ路線の次の千代田線に乗り換えてから、もう何度も読んでいる中原中也詩集(ハルキ文庫)を読んでいてふと思ったわけです。

中原中也は何を謳っているのか、と。

長らく中原中也の詩を読み続けてますが、はじめてそんな疑問を抱いたわけです。ひとつ疑問が生まれると、芋づる式に疑問がでてくる。

では今まで僕は何を思って詩を読んでいたの?詩単体の字面?リズム?中原中也を?中原中也の何を知ってるって、別に何を知ってるわけでもなしに?人は何を思って詩を読むの?書くの?詩人は何を思って詩を書くの?僕は詩を読んで何を思っているの?詩人は何を謳っているの?######%%%%。。。と。

そんな問答に終始してました。

「歌」や「曲」は聴き手にとって特定のリズムやテンポがありますが、読むリズムやテンポが読み手に書き手の意思とは関係なく委ねられる「詩」。
ある程度の構成の枠という点では共通する部分もあるが、特定のリズムやテンポに乗っている「歌詞」と「詩」は別物。

やはりその点では「詩」のほうが言葉の強度や純度がシビアに求められます。
一方「歌詞」は曲とともにあることで、伝わりやすさや訴求力が高いので、受け入れられ易さも違ってきます。

曲を届けるアーティストは、そのヴィジュアル面やプロモーションの展開によっても作品の評価が左右されます。
詩人に於いては、その詩人の人生がクローズアップされる事は評価を受けての後にあったとしても、ビジュアル等で評価が左右されるわけではなく、純粋に著作品に対しての善し悪しが先行されます。

そして、「詩」と「歌詞」にはそれぞれに鑑賞の形態の違いが大きい。
視覚から情報が入ってくる「詩」と、聴覚を伴い入ってくる「歌詞」。

活字の先に生々しさと、ともすればおどろおどろしい様な迫力を感じられるのは圧倒的に「詩」が多いのではないでしょうか。喜びや悲しみ、死や生を謳っているものが多いからでしょうか。
逆に「歌詞」には希望や切なさなさなどを謳い、伝わり易い言葉で高揚感や一体感を抱く事ができ、華々しさや活力、ほのぼのした感情になれるような力があると思います。

日常の事や恋愛、情景的な事を謳うのは両者共通している点ではありますが、やはり「詩」と「歌詞」では汲み取る感情や向かう意志の部分で差異があるんだろうな。
もっと根本の部分では似通っているんだろうけど。

まぁそんなこんなを思った次第でありました。

以下のリンクページはふむふむと思ったんで、興味がある方は覗いてみてください。

村上龍氏の職業紹介:13歳のハローワーク公式サイト「詩人」

ほぼ日刊イトイ新聞:売る言葉に買う言葉(全4回)「第1回『詩人』『歌人』は職業か」
 [補足]詩人・谷川俊太郎×歌人、雑誌ライター・枡野浩一×コピーライター・糸井重里(婦人公論1999年6月22日号からの転載記事)

◆◆◆

こないだの記事にチラっと書いた小学生の算数の問題ですが、答えは?との事なので書いときます。

【問題】
72人の子供がA、B2つの宿に分かれて泊まります。
問1)Aの宿の人数をBの宿の3.5倍にした時のそれぞれの宿に泊まる人数は?
問2)Aの宿の人数をBの宿の2倍より15人多くした時のそれぞれの宿に泊まる人数は?

【回答】
問1)
Aの宿の人数をX、Bの宿の人数をYとすると、
X+Y=72…(1)
X=3.5Y…(2)

(2)を(1)に
3.5Y+Y=72
4.5Y=72
Y=16

Y=16を(2)に
X=3.5×16
=56

Aの宿の人数は56人
Bの宿の人数は16人

問2)
Aの宿の人数をX、Bの宿の人数をYとすると、
X+Y=72…(1)
X=2Y+15…(2)

(2)を(1)に
2Y+15+Y=72
3Y=57
Y=19

Y=19を(1)に
X=2×19+15
=53

Aの宿の人数は53人
Bの宿の人数は19人

///

はい。

二月は頭ですが、今週も無事に末を迎えました。
今月はかなりいい感じで滑り出してるので、このまま調子に乗りたいと思います♪

それでは、明日もそのまた明日も、蒸気機関車ばりに頭をプシュプシュいわせながら、適度に体にも油をさしてあげましょう!
おつかれさまでございました☆

▼レターヘッドにフラカンの「元気ですか」の歌詞一部