人それぞれには理屈がある。
物心ついた時から時間の分だけ着実に積み重なった、長短一緒くたの精神構造。
これは即ち「個性」ではない。もっとまがまがしく人間の陰性の側面にあり、かつ巨大な支配力を内包するもの。
また、「理屈」は「意見」でも「考え方」でもない。関連させるものでもない。
「物事の理屈」は明らかにすべき場面もあれば、正当性がはっきりしやすい。しかし、「人が持つ理屈」は明らかになるものではないうえに、正当性などといった判断軸は無いに等しい。
ミニマルな範囲にしろ、ボーダレスな範囲しろ、果たして飛び交う言葉の軌跡が真核を貫くにはどれ程の注意力と集中力が必要か。
物事がその一つ所の居場所を半歩でも動いた瞬間にブレが生じだす。要は制御できるかどうか。コントロールの精度の問題だ。
持っている理屈が屈折してしまっているとしたら、それは話になるならない以前の問題になる。
「人が持つ理屈」は、その本質に於いて「覚悟」と類似する。「理屈が無ければ満足な理由は生じない」し、「覚悟が無ければ理由を満たす行動はできない」。
覚悟が無ければ理屈も弱い。理屈が無ければ説得力も弱い。
肝は俄然シンプルな話で、真っすぐ前を見据えているかどうかという事なんだが、シンプルな話ほど伝わるまでに歪曲する。それは一個人の中で完結するサイクルに於いても同様で、頭では理解していても行動には表れないというのが好例。
他人の理屈は、自分の理屈じゃない。
「理屈は置いといて」というポジティブな考えは水平思考には有効だ。「屁理屈」はただの逃げ言葉。「理屈をこねる」は時間の無駄。
理屈は「叩き上げる」ものだと個人的には考えている。
そんなことを考えながら公園の木陰のベンチに腰を下ろして休憩していたら、三ヶ所蚊に刺された。手首のとこがひどく痒い。
さっき初めて会ったクライアントは、とてもいい笑顔で接してくれた。和む。バリっとしてた。
今日の天気は晴れ。ビル街は排気ガスで霞んで見える。職場に戻ってもうひと仕事。仕事は楽しい。
学生やサラリーマンでごちゃごちゃとした地下鉄に乗り込む前に、今日も一通の手紙を赤いポストに投げ入れた。


